日语机构网 学习杂谈 日本社会重视学历轻视教育的根源是?

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

厚生労働省が公表した「2017年賃金構造基本統計調査」によると、大卒・院卒の男性の平均賃金は約40万円なのに対し、高卒は約29万円であった。一方、大卒・院卒の女性の賃金は約29万円で、高卒は約21万円であった。つまり、男性と女性の間、また大卒・院卒と高卒の間で、それぞれ約4割もの収入格差があるのだ。

据日本厚生劳动省公布的“2017年工资结构基本统计调查”显示,大学毕业生和研究生毕业生男性的平均工资大约为40万日元,高中毕业男性平均工资约29万日元。另一方面,大学和研究生毕业女性工资约为29万日元,高中毕业女性工资则为21万日元。也就是说,无论是男女之间,还是大学、研究生和高中毕业生之间,都有着将近四成的收入差距。

性別による収入格差を生む原因としては、東京商工リサーチによる「2019年3月期決算上場企業2,316社『女性役員比率』調査」で報告された女性の役員比率5%という数字や、5割を超える女性の非正規雇用比率(男性は約2割)に代表されるように、雇用に関する性差別が深く関わっていることが明白である。

关于两性收入差异原因,以下两点最有代表性:日本东京商工研究机构“2019年3月期决算2316家上市企业‘女性员工比例’调查”报告中显示女性员工比例为5%,女性的非正规雇佣比例占到了50%以上(男性约为20%),明显与雇佣相关的性别歧视有着很深的关系。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

また、雇用が学歴に大きく依存していることが、学歴による収入格差を生んでいることは言うまでもないだろう。総務省が公表した「2017年国勢調査」では、大卒・院卒の正規雇用比率は約7割なのに対し、高卒は5割を下回っている。国会議員に至っては、高卒は5%を下回る。このように日本は、雇用や社会的地位の確立に学歴が深く関わる、いわゆる「学歴社会」だ。

此外,公司的录用和学历有很大关系,因此不同学历造成的收入差距自不必多说。根据总务省公开 的“2017年人口普查”数据显示,大学毕业生、研究生毕业生的正规雇佣比例为70%,而高中毕业生则降至50%。至于国会议员中高中毕业生的比例,甚至降到了5%。这样的日本正是所谓的“学历社会”,即录用和确立社会地位都与学历息息相关。

だがここで、性差別は確かにおかしいが、高学歴者はそれ相応の教育を受けているのだから収入格差は当然だと、学歴社会を肯定的に捉える人もいるだろう。

虽然在这里,性别歧视确实很奇怪,但高学历者接受了相应的教育,所以有收入差距是理所当然的,因此也有人对学历社会持肯定态度。

しかし私は、残念ながら今の日本では「相応な教育」はなされておらず、日本における学歴社会は社会を維持・発展させるための機能を果たしていないと考えている。問題はどこにあるのか、研究者として日本・アメリカ・オーストリアで働き国内外の高学歴者を多く見てきた経験から考察する。

然而我认为,遗憾的是,现在的日本并没有“相应的教育”,而日本的“学历社会”并没有起到维持和发展社会的功能。问题究竟在哪儿呢?作为一个研究者,我将通过在日本、美国、奥地利等地工作并从国内外的高学历者那里观察得来的经验进行研究探讨。

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日本の学歴は「受験歴」

日本的学历为“应试历”

「学歴」とは文字通り学業上の個人の経歴のことである。例えば大学院修士卒という一般に高学歴と呼ばれる経歴の持ち主は、義務教育を終えた後に高等学校・大学・大学院という3つのステージで合計10年近くも学業に取り組んでいる。

“学历”,顾名思义,就是一个人在学业上的经历。例如,研究生毕业生可以说是高学历人才,他们在接受了九年义务教育之后又完成了高中、大学、研究生三个阶段的学业,共计近十年。

日本においてこのような高学歴を得るには、受験という関門を何度も突破しなければならない。近年では中学受験も珍しくないため、高学歴を目指す多くの子供は、小学校高学年、場合によっては低学年から中学受験の準備を始める。私立小学校に通うために幼稚園の時から受験を経験する子供も少なくない。その後、中学に入学したらすぐに高校受験の準備を始め、高校に入学したら今度は大学受験の準備を始める。

在日本,只有多次突破考试这项关卡才能得到这样的高学历。近年来,中学考试屡见不鲜,以高学历为目标的孩子多从小学高年级,甚至低年级就开始准备中学考试。也有不少孩子为了上私立小学,从幼儿园就开始备考。上了初中就开始准备高中入学考试,上了高中又要开始为大学入学考试做准备。

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このように、日本における高学歴者の多くは、その学歴を「受験歴」と言い換えてもいいほどに、異常なまでの時間と労力を受験に費やしている。

正因为如此,日本的很多高学历人群的学历可以称作“应试历”,他们在考试上花费了异于常人的时间和体力。

公平性が欠如した受験システム

缺乏公平性的应试系统

だが、この受験を前提にした日本の学歴社会は不完全性が高い。中でも私が特に問題視しているのが、受験を前提にした学歴社会を国づくりにおいて意義のあるものとして機能させるのであれば 絶対的に必要な3要素、「受験の公平性」「受験の先にある教育の充実」「高学歴者の社会への視野」が全て欠如している点である。

但是,以考试为前提的日本学历社会十分不完备。其中我特别关注的问题是,如果以考试为前提的学历社会在建立国家方面发挥了有意义的作用的话,绝对需要的3个要素“应试的公平性”“应试前教育的充实”“高学历者对社会的视野”都是欠缺的。

まず「公平性」についてであるが、これは誰もが平等に教育を受けられるという人権に関わる観点からだけでなく、多様な人がチャンスを得ることで社会の多様性が育まれるという観点からも重要である。しかし残念ながら、今の日本の受験システムはこの公平性を著しく欠いている。そこには様々な原因があるが、私は受験で出題される問題に偏りが強いことが大きな要因の一つだと考えている。

首先关于“公平性”,这不仅仅是从教育平等的人权相关的观点出发,从多样的人获得机会来培养社会的多样性的观点来看也很重要。但是遗憾的是,现在日本的考试系统明显缺乏这种公平性。虽然其中有各种各样的原因,但我认为主要的原因在于考试所出的题目明显地有所偏重。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

学校によって違いはあるが、基本的に受験問題の多くは「学校で教科書を勉強するだけでは解くのが難しいが、塾に通ったり家庭教師をつけるなどして学校では行わない特別な対策をすると解ける可能性が高まる」という種類に偏っている。つまり、この特別な対策が出来る環境にある子供が圧倒的に有利なわけである。

虽然不同学校程度不同,但基本上很多考试问题都偏向于这一种类:“它们很难单凭学校教科书中学到的知识解答,只有进行校外辅导,例如上补习班、请家庭教师等方法,答出题目的可能性才会提高”。也就是说,有特别对策的环境的孩子在考试时有着压倒性的 。

そして多くの場合、この特別な対策にはお金がかかる。例えば、もし受験を突破できれば奨学金なども利用して大学に通えるという場合でも(学費や奨学金制度の公平性の欠如もまた大きな問題だが)、受験のための特別な対策の費用が出せなければ、そこに辿り着く可能性は大きく低下してしまう。

而大多数情况下,这样的课外辅导是要花钱的。例如,即使考试中成功突围,能用奖学金上大学的情况下(虽然大学学费和奖学金制度缺乏公平性也是一个很大的问题),但如果不花钱参加应试特别课程,考取心仪大学的可能性也会大大降低。

このように、今の日本の受験システムでは、学びたい子供に公平なチャンスを与えることができておらず、学費だけでなく受験対策にもお金をかけられる環境下の子供に偏ってチャンスが与えられている。

可见,现在日本的应试系统,不能给想学习的孩子公平的机会,机会偏重于不仅是学费,连应试对策都要花钱的环境下的孩子。

大学で教育が軽視されている

大学轻视教育

だが問題はもっと根深い。日本では、受験を突破した先にある教育が、あろうことか軽視される傾向にあるのだ。学歴社会は日本以外の国でも見られるが、学歴社会において教育を軽視するという不可思議な傾向は世界の中でも極めて特殊である。象徴的なのが、大学における教育の惨状だ。

然而,问题其实更加深刻。在日本,超越应试的教育有被轻视的倾向。虽说学历社会这一现状在日本之外的国家也能见到,但在学历社会中轻视教育这种不可思议的倾向在世界范围内也是极其特殊的。最具代表性的就是大学教育的惨状。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

「教育」には広義にも狭義にも様々な意味があり、日本ではこの言葉を勉強をさせたりしつけをするという意味で用いる場合が多いが、私がいま問題にしている「教育」とは、人を教え育てるという文字通り広義の教育のことである。

“教育”有广义和狭义之分,日本多将该词用于学习这一含义,但我认为,现在“教育”的问题,更在于“培育人”这一广义的含义上。

この広い意味での「教育」は、個人のためだけでなく、社会を構成する人を育て持続可能な社会作りをしていくという観点からも重要である。そして大学とはこの「教育」の国としての方向性、つまり国づくりの方向性を象徴する高等教育機関であり、だからこそ、大学における教育を軽視する国などほとんどないのである。

广义上的“教育”,不仅为了个人,更重要的是通过培育构成社会的人从而创建一个可持续发展的社会。而大学是象征着国家“教育”的方向性,也就是创建国家的方向性的高等教育机构,所以几乎没有国家会轻视大学的教育。

国内外の大学生・大学院生を多く見てきた私の経験から言えるのは、こういった「教育」を受けることへの日本の学生の突出した自主性の欠如だ。大学に通う喜びが学び成長することになく、受験からの解放や就職における有利性にある学生が日本にはとても多い。

我见过很多国内外的大学生和研究生,从我的经验出发来看,日本的学生缺乏自主接受这种“教育”的能力。日本有许很多学生在大学的喜悦并非能够通过学习获得成长,而是从考试中解放出来,且在找工作上更有利。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

そして教える側にも、毎年同じ内容の講義を無気力に繰り返す教員や、大学院生を自身の研究を進めるための駒としてしか扱わない教員など、教育に無関心な教員が少なくない。もちろん意欲に満ちた学生も教育に熱意を持つ教員もいるが、新しい時代を見据えた教育環境を整えようとしない文科省含め、日本のあらゆるレイヤーにおける教育軽視の姿勢を嫌というほど目の当たりにしてきた。

而教育者一方也有不少对教育本身毫不关心的老师,他们有些人每年都在漫不经心地重复同样的授课内容,或是把研究生当作推进自身研究的棋子的教师。当然也有热情高涨的学生和对教育充满热情的教师,但包括文部科学省在内,我亲眼目睹了日本各个阶层令人厌恶的轻视教育的态度。

高学歴者の狭い視野

高学历者视野狭隘

教育軽視の結果と捉えることもできるが、学歴を重視する今の日本社会におけるもう1つの大きな問題が、高学歴者の社会への視野の欠如である。

重视学历的当今日本社会另一大问题,就是高学历者社会视野的狭隘,这也可以称得上是轻视教育导致的后果。

例えばフランス語には「Noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)」という「貴族(Noblesse)」と「義務を負わせる(Obliger)」を合わせた言葉がある。この言葉は、元々は文字通り貴族は貴族としての振る舞いをすべきという意味として使われていたが、今日では富裕層や高学歴者など社会的に力のある立場の人はそれ相応の社会的責任や義務を負うべきという考え方を示す言葉として使われている。

例如,法语中有“Noblesse oblige(贵族义务)”一词,这是将“贵族”和“承担义务”组合起来的词语。该词原意是指贵族的行为举止就应该有贵族的样子,如今引申为“社会中的高层,例如富裕群体和高学历者,应该承担相应的社会责任和义务”。

このような考え方は、私の知る範囲でも欧米だけでなくアジアを含め世界の多くの地域に当り前のように見られる。国際学会などで研究者が集まれば、世界情勢や自国の政治や社会の問題を当り前のように話題にするし、例えばジョージ・フロイド氏が殺害された事件に端を発した世界に広がる人種差別への抗議行動においても、私の所属する国際学会は署名と共に声明を発表している。

据我所知,这一观点不只在欧美地区备受推崇,亚洲在内的很多国家和地区也认为这是理所应当的。当研究者们聚集在国际学会这样的场合当中,理所应当地就会开始讨论国际形势、自己国家的政治和社会问题等话题。例如,当乔治·弗洛伊德被暴力杀害引发了一系列种族歧视抗议活动时,我参加的国际学会就在署名的同时发表了声明。

一方日本では、研究者が集まれば、〇〇大学の次の教授は誰か、〇〇が結婚したらしい、といった内側への視野に限った話題が多く出る。このように日本では、社会を維持・発展させる上で学歴を意義あるものにする要素がことごとく欠如している。つまり、高学歴者が社会をリードする土台が全く整っていないのだ。それにもかかわらず日本社会は、会社でも政治でも高学歴者が社会を動かす力を持つ紛れもない学歴社会である。

另一方面,日本的研究者集结在一起讨论的话题大多很狭隘,比如“某某大学的下任教授是谁”“谁结婚了”。可见,在日本,很多时候学历对于维持和发展社会都缺乏意义。也就是说,高学历者并不完全具备领导社会的基础。即便如此,日本社会依旧是个毫无悬念的学历社会,无论是公司还是政治,高学历人群依旧推动着整个社会前进。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

この一見すると矛盾に満ちた状況はなぜ生まれているのか。

为什么会产生这一看似矛盾的现状呢?

変化に脆弱な日本社会

不擅长应对变化的日本社会

私はそれは、高学歴を獲得できる偏った層が、充実した教育を受け社会を維持・発展させることよりも、その地位の保持に興味が偏っているからだと考える。医学部不正入試問題などは、上述した3要素の欠如と性差別が相まった、この保守思想の極みと言えないだろうか。

我认为,其原因就是获得高学历的阶层比起接受充实的教育为维持和发展社会做出贡献,他们更希望能够维持自己的社会地位。“医学专业不正当入学考试”(日本多个大学医学专业入学考试采取了对女性和复读生不利,优待特定考生的作弊行为的问题)等问题,和上文所说的三要素的欠缺和性别差异相表里,都映衬出日本极致的保守思想问题。

だがこの保守思想は、変化しない社会を前提に成り立つものであり、社会の変化に対して極めて脆弱だと私は考えている。そもそも、社会とは望む望まないにかかわらず、内的・外的要因で時代と共に変化するものである。教育に無関心で社会への視野を持たない日本のリーダー達が、国際社会の中で起こる激しい変化に的確に対応し、日本社会を維持・発展させていけるとは私にはとても思えない。

但是,我认为这种保守思想建立在没有变化的社会的前提下,面对社会的变化是极其脆弱的。原本社会就会因各种内外因素随着 而变化,这件事与人的期待无关。我不认为这些不重视教育、视野狭隘的日本精英们能够精确应对国际社会中的急速变化,维持和发展日本社会。

日本社会重视学历轻视教育的根源是?

実際に、今回のCOVID-19の感染拡大という未知の変化を前に日本の政治家や官僚達が打ち出す対策はことごとく後手に回っている。また現在、多様性や環境保全などSDGsの要素を政治やビジネスが前向きに考慮する方向に世界が急速にシフトしているが、それに対して日本の政治や企業、またメディアが見せる対応は驚くほど遅い。

实际上,面对本次新冠疫情扩大这一未知的变化,日本的政治家和官僚们出台的各项对策总是晚了一步。此外,当全球正在急速转变,各国政治和经济都在以联合国可持续发展目标(SDGs)多样性、环保性等要求重新考虑发展方向之时,日本政治、企业甚至媒体的应对速度却慢得惊人。

時代の変化に対して個人としても国としても柔軟に対応し、日本社会を自立した社会として維持・発展させていくためには、学歴社会が抱える問題に向き合い、教育を根本から見直す必要があるのではないだろうか。

对于 的变化,无论是作为个人还是作为国家都要灵活应对,为了让日本社会作为一个独立的社会维持和发展下去,日本政府和人民应该正视学历社会内含的问题,从根本上重新审视日本的教育。

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作者: 日语机构网

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